
私は糸井重里の「ほぼ日刊イトイ新聞」を1998年6月の創刊からほぼ毎日読んでいる
ここで糸井はほぼ日刊と言いながら現在まで毎日トップページに「エッセイのようなもの」を書いている
27年以上毎日である
今回はそこからの長い引用で始める
2024年08月24日の「今日のダーリン」
中年というあたりの年齢になってから、
じぶんで気をつけていることが、いくつかあります。
深さであるとか、趣味だとか、センスだとか、
長い時をかけて洗練されていくようなものごとについて、
できるだけ「価値を高くみない」と、注意しています。
実際に、「若いときにはわからなかった」ような感じ、
量を求めているときには気づけなかった質感、
流されて得たのではなく通じ合うようにわかる美意識、
作り手と受け手の間で思わずうなずきあうような味わい。
こういったものがあることは、よくわかります。
趣味がいいだとか、センスがいい、品がいい、深い
…というような褒められ方は、ある意味では、
お金や権力だけでは、なかなか手に入らないだけに、
最上の境地のように語られてしまいがちです。
でも、それを「いいなぁ」と思うのは自由ですが、
そこを目指そうとしたりするのは、
ちがうんじゃないかと、ぼくは考えるようにしています。
「趣味がいい」というのは、ひとつの衰弱ではないかと、
とても直感的にですが、ある時期から、
ぼくは思うようになったのです。
寓話のように語りましょうか。
長い間、料理人をやってきた
名人達人と呼ばれるような人がいたとして、
その人もやがては年を取ります。
年を取ったら、たとえば脂っこいものを苦手になります。
求める塩分も少なくなって薄味になっていくでしょう。
そして、昔からのご贔屓さんも年を取りますから、
「淡くて深い味」のおいしさを、よろこびます。
作り手も、受け手も、まことに趣味のいい料理を、
理解し合って認め合って食事をたのしむことでしょう。
やがて、その店には老人ばかりが集まるようになります。
そして、このごろの世の中の趣味の悪さを嘆き、
ほんとうのいいものをわからない社会を悲しみます。
そういう場があるのは、まったくかまわないのですが。
趣味だとかセンスだとかは価値のひとつではありますが、
あくまでも価値のひとつなのだと、ぼくは思います。
これと同じことは医者の世界でもいえる。
あまりに狭い、もしくはrigidな診断・治療・ケア理論を推しすぎると当たればセンスがいい、外れたらセンスが悪いというだけの話になってしまうことがある。
センスがいいとは運がいいの別名であることも多いし、衰弱を隠す誉め言葉にもみえる。もっとも臨床はセンスの裏に隠れた経験や直観のなせる技でもある。どこの世界も同じかもしれないが、年を取ると批判にさらされることは少なくなり、敬して遠ざけられることも多くなる。これを避けるにはどうするか。若者の声を聴く耳を持つこと(これがまた難しい、同世代の話を聞く何倍ものエネルギーを要する)、また老害といわれようが、誰をも平等に批判できるものを持っていること。
大阪ナオミが以前、全米オープンで優勝し、黒人差別に対して自分の考えを堂々と主張した。決勝までの7枚のマスクを用意し、優勝して、すべてそれを見せる機会を作った。何とかっこいいことか。初戦で負けても一定の効果はあっただろうが。言わなくてはおれないところに自分を置いたのだろう。
だが、私が同様に黒人差別を同じように言いつのったら何か違うような気がする。皮膚の色で差別するのはよくはないに決まっているが、現在の人間の存在様式が誰かは誰かの上にあり、別の誰かは誰かの上にあるというような錯綜した構造にある。その支配様式を根本的にとらえて変えない限りは何も変わらない。黒人が9割の町で1割の日本人が今のアメリカの黒人のような扱いを受けないとは言い切れないところに問題の根はある。皮膚の色はわかりやすいアイコンに過ぎない。ここでもセンスや直観に頼りすぎない方がよい。
久保田雅也












