言葉の解体と「場」の創成

雑感

 私は言葉は自由で制限なく使われるのがよいと思っている。

 若者の「キモイ」という言葉や「違くない」という言葉を聞いてもそれはそれでそうなる理由がある気がするし、日本語としていかがなものかとか、文法的に間違いだなどとは言わない。「気持ち悪い」と「キモイ」のもつ意味の広がりは明らかに異なるからである。言葉は時代の空気とともにあるし、その空気が勢いだけで言わせた言葉であればそのうち消えていく。正に言葉は生き物である。

 私は他人の言葉にとやかくいうことはないが、自分では使わない言葉がいくつかある。そのうちのひとつが、「だって」という接続詞である。使わない、というより使えない。自分がそれを使った時を想像するとキモイ、いや「気持ち悪い」のである。許(1)によると「だって」に共起する文末表現としては「・・・だもの(もん)」が多いとされる。このあたりに漂う言葉の軟弱さ(幼児性)、正当性の押しつけに私の忌避感があるのかも知れない。最近、引退を表明した吉田拓郎が、広島から東京へ出てきたとき(1970年)、東京の音楽関係者は全員敵に見えて、「特に「だってさー」などという野郎は許せなかった」と述懐していた。ここまでの敵対心は私にはないが、これに近いかも知れない。東京の音楽関係者には何の責任もないのだが。

 もうひとつ使わない、使えない言葉がある。「ちゃう言葉」である。私は山口の山陰側の過疎地で高校まで過ごしたが、中学の数学の授業での出来事を今でも鮮明に憶えている。いつもは山口弁丸出しの尊敬するT先生が、ある図形の定理を説明する時、急に「ここにこういう風に線を引いちゃうと、接線ができちゃうんだよ」と「ちゃう」言葉で話し始めた。教室は少しざわつき、失笑とも苦笑ともつかない笑いが広がった。先生もそれがわかったのか少し赤面した。この空気をうまく描写できているかどうかわからないが、田舎者を最も笑うのは田舎者かも知れない。しかし自らの姿を笑いにする、自己卑下を含むこの笑いは健全だ。東京弁という一地方の言葉が「標準語」という幻想として流通している中での一幕の喜劇である。

 こういう意味での言葉の禁忌にさらされていない世代が増えているとすれば、たとえ「キモイ」、「違くない」、「・・みたく」、「マジですか」などの耳障りな言葉が氾濫しても悪くはない。「障害」を「障がい」に書き替えようとする流れよりまだましである。個人のレベルで、私の「だって」嫌いと同様、「障害」というタームを好ましく思わないのは了解できるが、共同性のレベルで言葉の禁忌を作ると無限の退行にしかならない。そもそも「違かった」という言葉は、井上史雄(2)によると、100年前には既にある地域で高齢者が使っていてそれが東京に逆流したものらしい。「ちゃう言葉」も70年前のテープが残っており、ある地方から東京への逆流とされる(2)。ちなみに「うざったい」(今は短くなって「うざい」)は、多摩地域が発祥の地でそこから拡大していった(2)。言葉の歴史性を軽んじてはいけない。「違くない」、「違くて」は、もはや「大辞林」4版にも載っている。

 言葉や文字は記号としての機能を持つ。また、説明の道具として使われる。病名もそうである。しかし言葉で説明できることなど大したことではないのである。てんかんが脳の電気生理学的現象だといくら説明しても、てんかんという言葉にはそれ以外の歴史が凝縮されたスティグマが、社会にも個人にもついてまわる。それは言葉を替えて済む問題ではない。それらを取り巻く「場」が変わらないと解決しない問題である。それは疾患病態から治療へと進む医学モデルのみでなく、社会モデルからの把握が必要である。この「場」は社会的インフラでもある。具体的な制度や公共物とそれを支える人々の息吹のような観念が言葉を解体し、世代を重ねてやがて「当たり前になる」。

 私がフォローしていたてんかん+自閉スペクトラム症の高校生が両親の発案で海外の高校に1年留学した。彼は、日本では不登校であったが、留学先では下手な英語で同級生と交流し、教師には褒められるという日本ではありえなかったことを経験し、自信をつけて帰国した。留学先の自由な校風、濃密な意味のやりとりを強いられる日本語環境から離れたこと、下手な英語で辞書的な意味のやりとりですんだこと、親から離れたことなどの要因が考えられる。ここでも我々にできることは「場」の創成に少しでも加担することではないかと思う。

 「・・・ねばならない」や「・・・すべき」が多い世の中は息苦しい。自分に対してもそうかも知れない。「気持ち悪さ」の根源をあらためて問うことは「気持ちよいこと」ではないが、自分へのささやかな戒律を解体することも大事なことかも知れない。

 「何でお前は「だって」と気軽に言えないんだ?」と問われて「だって気持ち悪いんだもん」と気軽に答えられるくらい解体できていればもっと自由度が増すのかも知れない。

(1)許 夏玲.話し言葉における接続詞「だって」の使用実態.第6回日本語教育研究集会予稿集 2008:34-37.
https://www.lang.nagoya-u.ac.jp/nichigen/menu7_folder/symposium/pdf/6/09.pdf(2022.10.23、確認)

(2)井上史雄.日本語ウォッチング 岩波新書 1998.

本稿は日本重症心身障害学会誌47-3号の巻頭言として書いた文章に加筆したものである。

島田療育センター小児科
久保田雅也

雑感

Posted by 久保田 雅也