以下の文章は高校の同級生が関わっている郷土の歴史文化誌からの執筆依頼で書いたものに加筆改稿したものである。

自己紹介
今年7月の昭和48年卒業豊北高校同窓会で同級生と会って何か書かないかという依頼を受けた。私も70才になり朧げな記憶が消滅しないうちに来し方を少しふり返って記録として残しておこうかと思い引き受けた。同窓会に集まった者それぞれの顔に時間が刻まれ、名前を聞いてもすぐには結び付かない方もいたが、当時の教室やグランドを思い出しながら感慨に浸っていた。約20名の方は鬼籍に入られていた。
私は神田上直子に昭和30年に生まれた。あまり記憶にはない離れに住んでいた曽祖父(私は家の前の川ででよくフナ釣りをしていたが、その釣れたフナを入れる小さいバケツを借りに行ったとき、「殺生はよくないぞ」と諭されたことは憶えている)、浄土真宗の門徒で親鸞を慕い、土に生まれ、土に還って行ったような祖父、慈愛そのもののような祖母、酒好きで気の弱い父、働き者の母のもとで自由に遊ぶことができた。3才下の妹も生まれ貧しいながら楽しいどこにでもある家庭だった。今から思うと大変不便な世の中だったが、しかし何かこちらの心の奥底の無形の動機と逸る未熟さを何も言わず大事にしてくれたことには感謝しかない。
滝部小学校時代
自宅から滝部小学校まで4㎞余りを徒歩で通った。夏休みにはほとんど毎日近くの山に出かけ、昆虫採集をしていた。当時は大きなブナやクヌギの木を揺さぶるとカブトムシやクワガタ、カミキリムシなどが落ちてくる恵まれた環境だった。蝉もたくさんの種類がおり、アブラゼミ、ツクツクボウシ、ミンミンゼミ、ニイニイゼミ、ヒグラシ、クマゼミなどがそれぞれ独特の鳴き声を持っていた。ツクツクボウシは20mくらい離れていても人の気配があると鳴き方を変える。その変え方はおそらく種固有のもので、私が現在勤務する病院近くの公園で聞いたツクツクボウシも同じであった。秋の赤トンボの大群、夏の満天の星はその後暮らすようになった東京では見ることはなかった。周囲は田畑と山河、目の前を山陰線が走っているようなところだった。自然に恵まれた贅沢な時間を過ごしたとわかるのはずっと後になってからだ。
豊北一中時代
入学してすぐにバレー部に入部したが、何に魅かれて入ったのかはよく憶えてはいない。その頃はまだバレーは9人制で高身長でなくともレシーブさえできれば活躍の場はあった。厳しい練習で県体(西部)で優勝したこともあったが、勝った試合よりも負けた試合の方をよく憶えている。勝てば決勝は翌日と決まっていたある大会で、勝ってホテルで大騒ぎするぞと皆で話していたことが無残にも準々決勝で負けてしまい、夜中に滝部まで帰らなくてはならない事態になったことがあった。あの悔しさ、情けなさは忘れられない。誰かを責めるわけでもなく、茫然自失で皆うなだれていた。思い返せば練習方法も部内の上下関係も昭和的なバレー部ではあった。1960年代後半である。日本自体に高度成長期の恍惚と矛盾が露呈し始めていた時代でもある。まだ頑張れば何とかなる、やる気さえあればできないことはないという意識が全体を覆っていた。バレー部の中にも「根性」、「やる気」という言葉が何かにつけ使われた。練習量が多いほどうまくなるという幻想があって夏休みも冬休みもほとんど休みはなかった。
高度成長期の日本はGDPこそ上昇していったが、主要国のうちで最も労働生産性が悪かったことが知られている。非効率な仕事を残業、終身雇用、年功序列などを背景に行っていた時代であった。部活もこういう背景と重なる要素も多かったが、それが全て否定すべきことで無駄だったかというとそうでもない。多くのことを学んだのである。同じ場所に集まり、汗をかき、一緒に苦楽を共有し、個を超えた同調を体験するという欧米の合理主義が苦手とする言葉以前の身体的共同性の形成があった。この中でかけがえのないことを学んだのは確かである。思えば中学時代に大げさに言えば人と人の愛憎の原基はすべて学んだような気がする。人自体の持つ曖昧さ、予測不可能性、沈黙の中の配慮、落としどころのない希望や絶望、これらがないまぜになった名状しがたい世界があった。その後はそれらの応用に過ぎない。
しかし濃密な共同性が作る相互扶助と親和性はそれらと裏腹の閉鎖性の論理が顔をのぞかせることもある。
豊北高校時代
北高では中学の続きという感じでバレー部に入部。高校は6人制であった。キャプテンとなり、それなりに練習には明け暮れたが、下関大会で一度3位になったくらいで戦績は誇れるものではない。数学も物理もさほど好きでもなかったが、工学部を目指した。山本団朗先生には大変お世話になった。
九州大学時代
入学式(1973年)には「管制入学式粉砕」を叫ぶ赤いヘルメットにタオルで覆面をした、三島由紀夫が大掃除でもやるようなと揶揄した学生たちが会場になだれ込み、混乱したが、緞帳の裏から機動隊がこれもなだれ込んできて学生たちを逮捕し、一幕の活劇は10分で終わった。「やれやれ」という感じであった。当時はまだ活動家その他が学内でビラを配っており、キャンパスを少し歩けば持ちきれないほどであった。最初は丁寧に読んでいたが、独特の文体と理解不能なアジ演説は私の中にはほとんど入ってこなかった。それでも田舎から出て来たばかりで何物かに飢えていた者にとって世界は混沌としており、何が正しいかは不明なままであり、世界はこちらの解釈を待っているのだというような強引な妄想を持っていた。美術部に入って油絵を描いたり、その仲間とバンドを作って発表したり、疾風怒濤の時代を私なりに駆け抜けた。誰でも若気の至りというものを持っていて、昔の自分に説教したいことばかりである。そういう鬱屈と焦燥の中で偶然に手にしたのが吉本隆明の著作であった。彼の著作はよくわからないが、何か大事なことを述べているという一点は変わらず、この50年読み続けている。
工学部応用原子核工学科の大学院まで進み、核融合の研究を修士課程で行い、あるIT関係の企業に就職した。しかし1年で退職。退職前に医学部を受験した。1年で会社を辞めることを父に話したが、おそらく理解不能であったと思う。「何故せっかく入った会社を辞めるのか」という問いにたたき上げの国鉄職員であった父が理解できるような答えは用意できなかった。母はあきらめ顔で認めてくれた(ように思う)。
佐賀医大時代
佐賀医大在学中に結婚し、娘が2人生まれた。佐賀というのどかな環境で生活は大変だったが、2回目の学生生活を満喫した。博多も住みやすかったが、佐賀も田舎の良さが存分に味わえる所であった。同級生には既卒者も多く、若者とのバカ騒ぎにはブレーキがかかったが、できる限り付き合った。
医師になってから
1986年に医学部を卒業して医師になった。神経内科に興味を持ち、小児科の中でも小児神経を専門にしようと考えた。小児神経科医が対象にするのは、脳神経や末梢神経に障害を受けて発症する全ての疾患である。主訴として「歩けない」、「しゃべれない」、「痛い」、「倒れる」といったわかりやすいものから「落ち着きがない」、「眠れない」、「集団行動がとれない」、「ちょっと変わっている」などのわかりにくいものまであり、多彩である。後者に関しては特に患者自らが病院に来るようなことはほぼない。家族や学校関係者が気付いて連れて来る。
東大病院小児科に11年、国立成育医療研究センター神経内科に12年勤務した。この40年の間で、医療も大きく様変わりした。治らない疾患の代表でもあった脳神経疾患が少しずつ治療可能になって行った。それでもまだ根治できない疾患はたくさんある。小児神経疾患だけでも5000~6000種類あるとされる。治る疾患はある意味では治療に反応して勝手に治っていく(ようにみえる)。そこでは「こころ」とは何かなどとはあまり問われない。
人の身体は精密機械としての部分を持つ。近代医学はその機械の部分をいかに上手く修繕するかということに腐心し発展してきた。しかし人は機械として解釈できない部分=言語化できない部分も多く有するから人なのである。機械としての不具合は、非機械の部分にも当然影響する。身体=機械の修繕に取り掛かっているこちら側も機械になっているが、これらは心身二元論の限界でもある。機械と機械の関係では「治す」ことはできてもそれだけでは「癒す」ことはできないだろう。それでも「治る」だけましである。
私が小児神経科医になって突き付けられた問いは「では治せない疾患に対して何ができるのか」であった。これは対象が小児とは限らない。現在勤務している島田療育センター(多摩市)には233名の長期入所者がいるが、平均年齢50才であり、ここを終の棲家とする。この重症心身障害者たちは様々な神経疾患を持ち、少なくとも治って退院ということはない。「治す」ことも大事だが、「治せない」時に何が必要かという発想にシフトする術を持っていないと医者はやっていけない。良くする医療から、悪くしない医療へのシフトも必要である。これもまた難しいのだが、「最も弱い者たちを最後まで守る」という理念は立場の数だけ正義がある現在の混沌とした世界への「Non」だと考えている。
様々な神経疾患、特に稀少難病の診断・治療・家族会との連携は現在も厚労省の班会議などを通じて多職種の協力のもと行われている。
いのちの授業
私は去年から近隣の中学校で「いのちの授業」を行っている。学校からの依頼で中1の道徳の時間に喋っているのだが、命を大切にしようなどとは言わずに、脳科学的にヒトの曖昧さやいい加減さを示し、私の病院にいる彼らと同年代の言葉もない寝たきりの患者がICT機器(アイトラッカー)を使ってゲームを楽しむ風景を見せている。キーワードは明石家さんまの「生きてるだけで丸儲け」である。先月、「人間・明石家さんま」という本が出たので読んでみたが、医学的に言えば、その特性はADHDでshort sleeperということになりそうだ。その特性を凌駕する話術の天才であり、努力の人だと思う。
中学生たちもよく食いついてくれて、あっという間の1時間だった。感想を後で全員が書くことになっていたようで皆400字以上の文章を寄せてくれた。「質問にも答えてくれますね」という教員の依頼に迂闊にもOKしたために250人分の答えと感想を個別に答える羽目になってしまった。3ヶ月かかったが、それぞれの境遇の中からの素直で鋭い質問や感想はこちらが居住まいを正すのには十分だった。大人になるとは子供でなくなることではない。幼年期の核を保存しながら格闘し、たとえ不幸を背負っても向き合う術を保持していくのが成熟の要件だと思う。大人の自殺は減っても小中学生の自殺は増え続けている。老境に入った者が役立つことが少しはあるかも知れないと思い行っている。(図2)
医工連携について

国立成育医療研究センター神経内科の勤務を継続しながら、2015年から東京大学大学院情報理工研究科連携講座の教授を兼務し(2020年、現在の病院に来てからは非常勤講師として)、院生と学生に小児神経学から脳科学全般の講義を行った。情報工学と医療の連携を目指した講座である。工学部にいたからわかるが、工学部生は技術や知識はあっても現実のニーズを知らないので医療の中の困りごとと実際の解決法や現状を教えた。AIやICTなしには医療は先には進めないような勢いである。1人でも医療に関わる研究者、技術者が出てくれればよいと思う。現在でも様々な機器を使って臨床研究はしているが、この院生たちとの共同研究も行う計画がある。
最後に
やっと古稀になってよかったのは「古稀の者をこき使うな!」と言えることぐらいである。私たちが幼少期に持っていた「老い」というイメージはつくづく間違っていた、もしくは誤解していたと思う。なぜ余生という言葉がいまだにあるのかということとも関係する。余ったおまけの生などあるはずがない。誰かの都合で決められたような言葉である。生産年齢から外れた時期、社会的役割が終わった後といった社会制度の側の都合で決められた言葉である。外国語にはこの「余生」に相当する言葉はないらしい。中国語に同じ余生という言葉があるが、ニュアンスが異なる。「死ねば死にきり、自然は水際立っている」(高村光太郎)でよいではないか。それまでは野垂れ死にしようが、どうなろうが「生」の最前線に皆いるのである。
久保田雅也













